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徒然なるままに…

このブログは、私の徒然日記を書いて行こうと思います。

徒然想ったこと

今回は、また繰り返しになっているとは思いますが、自分の障害とそれによる自分の人格について書いてみようと思う。

 

私は、私の今の半分の期間(18歳まで)より少ない時間、数学というものに没頭する毎日で、それだけが武器でした。

 

しかし、注察妄想の悪化により統合失調症を発症。

(注察妄想とは、四六時中周りや私の場合はテレビに監視されているという妄想)

 

数学と言う武器は病院の薬の大量服薬により、簡単な計算が合わなくなってしまい、数学というものに賭けていた自信を完全に奪われた。最初の入院は脱走などもし、酷い状態だった、理性がまだ当初はあったが、悟性に落ちた。

 

それ以後もテレビで自分の事を言っていると感じる関係妄想。誇大妄想、被害妄想等に悩まされてきた。

 

とまあ、闘病生活を送っていました、そしてこの36歳という、18歳の倍の年数が経ち、数学に頼った生き方をしなくても自信を持つ事が出来るようになってきた。

 

今から書こうと思う数学の事は、もしかしたらズレているかも知れませんが、悟性に落ちる前までは、そう思っていたという事を書こうと思う。

 

数学というのは自然科学における言語であり、また社会科学においては主に心理学に関する確立、統計などを解き明かす言語でもあると思う。

 

私は数学は技術だと高校時代は思っていて、例えば「木の柱」を直角に曲がっているコーナーでどれ位の通路の幅があれば、ギリギリ通れるか?等といった事を数式に書き出して、それを必要十分な答えを導きだす。という様な、

 

要するに、文章からそれを文字式で数式に書き出していって、それを必要十分にその等式、不等式などに最終的にもっていき(頭の中でイメージできたら尚ベター)、現実的なその問題文での条件でその答えとして割り出していくという、”技術”だと、高校時代は思っていた。

 

しかし、大学に入って、もっと頭が堅くなって行って、線形代数(行列)の教科書や、位相などに興味が沸いてきて、もっと数学の哲学的な方向に自分の思いが向いていって、結局“応用”数学科を中退し、大学も辞めてしまい、もっと研究もしたかったけれども、大学に行っていないのであれば働かなければならないという、国民の義務を思い、数学に未練はあるものの、上京しバイトを始めたが、先に述べたようにその頃から、注察妄想が半端じゃないほど出てしまい、力尽き果ててしまいました。

 

まだ、初入院から3年くらいはまだ、理性があったので、「ゲーデル不完全性定理」に凄く傾倒し、カオスや複素解析などに興味があったが、私は常々いつもこういう考え方に向かうのだが、その本質部分は何だ?

 

つまり、その元となる根拠、ルーツは何だ?という方向性とそれを短い言葉で自分なりに切るのが好きだったため、「数学を数学足らしめるものは何か?」という問いに自分なりにいつの間にか考えていたみたいで、ゲーデル不完全性定理では、公理系において自らの公理系で自身の無矛盾を証明できない。自分で自分が正しいという証明ができない。という所をそういう公理系を使うのではなく、「一つのルールがあれば、それにより現実には無理かも知れない事でも頭の中ではそのルールに基づいた世界が作れる」と思うように至り、「ルールがあるならば、世界ができる」という言葉で矛盾を生む事は覚悟ででもそれでも、私史上最高の発見ができた、真理を発見した。と自分では思うに至った。

 

それから、3回目くらいかな?入退院している中で「心理教育ミーティング」というフォーラム形式で色々討論していって、自分なりに「意味とは形によって意味づけられる」という言葉、この真意は自分の外界の事を自身の頭の中で形(文章や音譜、絵など)によって意味が刻まれると考えたりもしていた時期もあった。

 

そして、私は帝王学として、「サイコサイバネティクス」に出会った事は大きかった。

初めて、最初から最後までやり通せた自己啓発のプログラムで、これにより、失敗する事があってもそれを乗り越えることはできるし、自尊心を大切にし、自分は自分、他人は他人、それが全て。と考えられるようになった時、本当に救われた感覚がありました。人と比較するのではなく、自分自身の記録に挑戦していけば良いのだと言う、劣等感や優越感という嫌な感覚を伴わなくても良いという精神のくつろぎの法則で、基本的自尊感情が満たされ、他人と比較してひがまなくても良いし、人をバカにしなくても良いという基本的な人権も大切に想えるようになりました。

 

サイコサイバネティクスは、もう一度したいとは思っていますが、iPhoneにその音声が入っていて、たまにエピソードを聞いているからいいかな?とは思うものの、もし自分に彼女ができたとしたら、彼女が劣等感や優越感だらけだったら、絶対に仕込んでやろうと思っています。

 

でも、それくらい、良いプログラムで内容はシリアスな場面もありますが、それにより深い傷から教訓として人生にはこのように立ち向かうべきなんだなと勉強になるので、私は一度学習を終えたので、それを元にした生き方を見つけていきたいと思っています。

 

それに、今は就職する為にWINGLEにも通所し、確実に成長している気持ちになる時もあります。対人的知能もメタ認知やそれからのメタ認知モニタリングメタ認知コントロールをすることによって(今はまだ全部はできていないが、モニタリングをWINGLEのスタッフにして貰っていますが)、いずれは自身の感情と問題解決できるかをコントロール出来るよう努力したいです。

 

随分飛び立つのに時間はかかるものの、器は小さいですが(すぐキレます)、だって最近のモラルがなっていないのは善くないでしょ若いものに限らず、歳をとった人も違法ドラッグや、飲酒運転など。私としては勧善懲悪したい気持ちになる事も多々あるのですが(健常者に対しては)、障害者はちょっとバカになっている所が私もありますので(障害者の特異な問題があるので)、私のまだ根幹にある時代劇の様な勧善懲悪をまた復権しないと、正しい事を通せない、悪が勝つ社会ではよくありません。

 

ちょっと、意気が上がってますね。ちょっと下げます。

 

今の日本の価値基準として、善悪をはかる徳性というものを置いた方がいいと私も思う。それは、ブータンの国民総幸福というようなものさしのようなものだ。

 

今、「たかじんのそこまで言って委員会」で消費税増税の話をやっているが、「あーもーわかんないです」。経済的指標だけでは既に入っている高齢化社会の国では、幸福感を高めていく方向に持っていけば、適材適所に(?)というか、稼ぐ能力のある人ない人の間に仲介する福祉事業として、先程は基本的自尊感情(自尊心)を持っていればいいとだけ書きましたが、社会的自尊感情というものを満たす、ごめんなさい。稼げる人には頭を下げてご年配の方の為に福祉事業に注力してもらい、高齢の方々の幸福感を満たすことが今の需要があるところだと思います。

 

さて、これから私はこのようにとうとうと述べましたが、経済的自立。それが、私の最優先事項。それまでの間に彼女をつくるのも、、、?よくわからないです。病院が一緒の人とはつきあいませんとだけは書いて置こうと思います。色んな嫌な噂なども流されているみたいですからね、、、病院関係では親友1人だけでいいです。嫌な感情を抱かない人もいるからその人達はその人達でいいけれど、病院を離れたら、それっきりにするつもりです。

 

今日は、よく書きましたね。

 

はぁ、今回は、書きたい事一杯かけました。

 

これを読んで頂いた方、ありがとうございます。

 

それではまた、、、

 

See you later...