徒然なるままに…

このブログは、私の徒然日記を書いて行こうと思います。

キリストの境遇

キリストの境遇は苛烈極まりなかったのではないか?と私は思う。

本当にキリストはマリアに生存を望まれたのであろうか?

監視カメラが公共世界を包むにつれて

監視カメラによって、公共エリアでの個人の行動を監視するようになっている。

防犯や事件が起きた時の早急な対応に期待できると共に、

もし政府が反政府勢力の誰かに罪を着せてその個人を終わらせようと思った時、

監視カメラで撮った映像を加工し、反政府勢力の個人の顔を貼り付け、その個人の行動をねつ造し、表沙汰にならずに個人を陥れることは可能だろう。

結果、政府に与する人間しか生きられず、政府の支配力を誇示するだろう。

政府が信用できるのかどうかは、最後までわからない。

監視カメラが配備されるのであるならば、その映像が本物かどうか鑑定できる力も完全にしないと本当の安全は来ないだろうし、監視カメラがあっても凶行はなくならないだろう。

私に当てはまる場合は、私の行動を監視カメラで完全に集積し、得られた事実と近しい環境の犯罪者の事実を公共の電波で放送し、私の人格公開殺人を平然としてしまう恐ろしい行為がテレビをつけると楽しめる。

「生きている」という定義について私感。

「力を持つもの」を全て「生きている」とすると、人間は自分の実の子供以外でも子供を作ることはできる。と考えることもできる。

「生命」以外にも、「魅力を持つもの」、「動力を持つもの」、など色々な「生きているもの」に支えられている。と考えることもできる。

まあ、今回の記事は私の勝手な考え方なのですがね…

が、この場合は完全に生きているものの序列はできる。

命に卑しいものはない。

クラッカーの脅威

クラッカーとは悪意を持ったネットハッカー

クラッカーは私たちの生活を裸にして、それらを見ている、ひどければ個人情報を売ったり、そのままお金を盗んだりする。

クラッカーは私たちのスマホからどこにいるかを簡単に知る。

スマホを持ち歩く範囲から、いつもの生活順序を知っている。

スマホで見ているもので何が好きかも知っているし、何を考えているかも裸にするし、何を購入したかも知っている。

公安のハッカー部門ではこのような方法で、危険分子を抑えようとするのだろう。

しかし、個人は感情を激しく潰されると反発する性質があるので、個人の感情が潰されないが個人が行動に責任を持つ社会形態を望む。

話を戻して、スマホやPCなどを多く使用する人たちにとって、それらによって生活が裸にされるのはクラッカーにとっては容易なので、それらから秘密を離して、また公に示しても良い線としてそれらを使用するなど、メッセージ性を考慮した行動ができると上級者だと思う。

しかし、公に個人がかなり特定されている場合、個人の秘密が隠せない場合がある。それはかなりきつい。これで個人の感情が潰される場合がある。この場合は個人に感情の逃げ道を作っておいてあげないと行けない。犯罪を犯している個人の場合は捕まえられなければならない。

反社会的勢力は抑え込まないと行けないので、政府はその鎮圧に向かう。

ネット上の行為がどう考えるべきか?という議論と法整備が必要か?と思う。

ネット上にホストコンピューターがあり、それらに私たちはアクセスしてサービスを受ける。どのようなサービスを受けたかという履歴や個人情報が残る。そのホストコンピューターにクラッカーはアクセスして個人情報を盗む。クラッカーは相手を選ばないので個人のコンピューターにも入り込める。だから、セキュリティ対策をしないとダダ漏れなのだ。不特定多数の利用するPCには「キーロガー」という脅威もある。詳細は検索して欲しい。私は他のネット脅威は防げているがキーロガーは怖い。クラッカーは自分の行動を悟られないように他人のPCに入り込めるのが強みだし相手を圧倒する。でも、クラッカーはホストコンピューターに入って個人の嗜好や情報を得るだろうね。ネット上の性質から、また多くの人たちの行動から何が規制が必要か?何はそのままでよいか?という線としての法整備が必要に思う。

生きるということの見方

今、私たちが生きているのは、受精卵になる時に勝負に勝ったからである。

私たちの生は勝つために、しのぎを削るという側面も否めない。人生とは勝負である。

だから、相手を負かそうとする側面は自分が勝つためという面もあるので一概に駄目とは言えない。

負けた経験がある人が、その負けから学ぶという側面はあると思う。

絶対的な負けという死が待っているからこそ、それまで負けないという姿勢で抗い続ける姿勢、またその姿勢が負けたくない人を動かすのは言うまでもない。

死に勝つために死んではいけない。死んだら終わり、ゲームセットなのだ。

死なせないための努力が誰にとっても最善で文明を進歩させたのだ。

死を産んだり取引したりするのは最悪なのだ、暴力に加担するな。

亡くなられた先達を有難くいただき、

生を尊べる健全な世の中を望む。

日本での政府とメディアの関係。

日本では、放送法により「政治的中立性」をメディアが守らなければならない。

政府は全てを支配、もちろんメディアも支配している。

なので、政府が上でメディアが下。

メディアが放送している内容は支配しようという現れが見える。それは政府からのお達し。

メディアが政治に反逆するような報道は、政治的中立性を守ろうとしている現れ。

 

情報の境界線についての私論。

我々の高度文明の上にAIという自動思考装置が確立されていく。

IoTやロボットというものと結びついていくと、それらIT機器は、電気さえあれば、原始世界でいう原始的な菌に重なる、死の遺伝子のない増殖のみの増え方をするように見えていくのではないか?

上のことは我々の脳内には重なるものなのか?脳は萎縮することもあるがそれは死の遺伝子によってもたらされるものなのか?今後の技術で脳が萎縮してもそれも読み取り脳が残ればその人が何を考えてきたか?ということが再現できる技術というものは今後できていくものか?できるなら興味深い。

また、死を意識してもそれ以降は考えられないのは、「脳が死の遺伝子がない」ということなのかな?とも思った。つまり本来、脳は創造的思考をするものなんじゃないか?と私は考える。脳が死、つまり破壊というものを考えるのは本来的ではないような気が私はする。つまり脳は創造的思考をして競争はすれど、競争相手を殺すというところまではいかないのではないか?と私は思う。だから、体から脳だけ独立し情報世界を閉じ込め、そこの中で死なない思考をするのかな?と私は思う。競争がなくなっていくと脳が萎縮するのかもとも思った。全く奨励してはいないですが、死ぬ思考は考えるだけでは実質的な死を迎えない。

 

しかし、我々の宇宙が情報機器で充満し覚醒しても、そこに嫌気がさして、どうしてもこの宇宙に居たくない、死にたいという意識になったとしたら、そこにはブラックホールという逃げ道ではあるが残される。死に場所が残るという哀しいがその当事者にとっては希望の場所になり得る。

 

その意味ではブラックホールは情報の死に場所で、遺体としてのブラックホールから読み取れるものは何か?という問題が残る。

 

これまでのことを考えると、人間とは、種の保存も死も持っている、生命の限界に挑戦しながら、あらゆる生存形態を実現する、ものすごい技術の集大成なんだなと振り返る。

 

倫理的な問題は残るものの、人間は人工的にクローンによって種を完全保存したり、性の問題が男と女という生来に依拠はするだろうけれど問題にならなくなっていくのかも知れない。と思った。

 

余談。

遺伝子情報がATGCという4つの塩基しかないのは、この性の方向帰着が4つで、勝手な重ね方ですが、AT結合を異性間愛の結合、GCを同性間愛の結合のような結実する所では2つの形しかない。4つの塩基の場合2つのカップル。人間の場合は、男と女、男と男、女と女。という3つのカップルになる。しかしながら、愛は2つの結合という所では純粋で外は無関係なものだと思っています。ここから私は、遺伝子は愛の情報だと感じる。

また、生命史は異性間で進化して来たんだなと思う。平均的な顔が美顔に見えるというのは、美顔がストライクゾーンが広いということを考えれば納得もできる。全てにおいて平均的とは全てにおいて可もなく不可もなくだが押さえていることから、広い対象に選ばれやすくなる。また、男と女とは結婚という戦争はすれど、子どもによって平和を保つのかも知れない。とも思った。男は女を愛そうとするが近づけない、女は男を簡単に愛せる状況だが離れたい。のかも知れない。